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乙女の虫歯治療:れいこ編 大学生

更新日:2025年08月30日

乙女のお悩み ― もう一つの物語・れいこの場合(拡張・増補完全稿)

れいこは、生まれつき目鼻立ちがくっきりした美人だ。 涼しげな瞳に長い睫毛。白い額から顎にかけてのラインは細く、横顔の影まで整っている。歯並びは一見して整い、上の前歯は素直に並んでいるが、下の歯列には子どもの頃からのわずかな叢生が残っていて、右下の臼歯群はほんの少しだけ内側に寄っている。笑えば犬歯の稜線が光る。だが、本人しか知らない小さな悩みがあった。右下のいちばん奥――七番の咬合面の溝の片隅で、ときどき、針先のような違和感が走るのだ。


一 カフェにて――痛い話を笑いに変えるまで(増量版)

二〇〇三年の四月。ガラス越しの光は、まだ春の冷たさを含んでテーブルの木目を浅く照らしていた。フォークが皿に触れるたびに、白い磁器の薄い鳴き声がして、氷水のグラスの側面を雫がゆっくり落ちる。その水の線を目で追いながら、れいこは笑っていた。笑うと、整った前歯の列がすっと現れる。だが、右下の奥――七番の溝の片隅に沈む暗点のことは、誰も知らない。

向かいには恵と里奈、斜めに麻子。三人のトレーから立つ湯気と甘いソースの匂いに、換気の風が重なる。

「ねえ、歯医者って、ほんとに痛いの?」と里奈。

その言葉がテーブルの中央に乗せられた瞬間、時間がじわり粘度を増した。れいこはストローの包装紙を指先で丸めながら、平静の顔を選ぶ。

「昨日、先輩が神経抜いたって。あのさ、音がさ、キュイーン、キュイーン、キュイイイイーンって」

「音だけ過剰演出しないで」麻子が笑って、氷のグラスを耳に寄せるふり。「でも、あの低いのもだよね。吸うやつ、コオー、コオオオオー

恵が肩をすくめる。「待合室でそれ聞くだけで泣けるもん。切れ切れの『キュイーン、キュイ、キュイ、チュイイイイーン』とかさ」

三人の笑いに、氷がからんと応じる。れいこは笑いながら、舌の先で右下奥を探った。ざらり――想像だけで、歯髄がひそかに身じろぎする。

「れいこは?」と里奈に問われ、れいこは肩をすくめた。「平気だよ。前は詰めただけで済んだし」

(平気。と言った。けど、冷たいのが怖い。コップの汗が指に触れるだけで、右下がそわそわする)

「ねえ、恵の銀歯ってどこ?」里奈が身を乗り出す。「見たら慣れるって言うじゃん」

恵は頬を染めてナプキンを広げる。「笑わないでよ……アーン

春の光が口腔内で跳ね、上の小臼歯の咬合面に淡い銀がにわかに星のように灯る。さらに奥、臼歯に大きめのインレーが一つ。

れいこは胸の奥で小さくどきん、と鳴った。金属の冷たい反射は、想像の痛みと直結している。(私も、あれに近づいている?)

麻子が低く言う。「痛かったの?」

恵は首をすくめて笑いを逃がす。「最初は平気。途中から細くなって、キュイーン、キィーン、キューンって。涙が勝手に」

三人の顔が、同時に少しだけ曇った。テーブルの矩形の光が、雲で薄くなる。れいこは水を一口――冷たさはまだ常温に近い。それでも右下の一点が、針で軽くつつかれるみたいに鳴った。

(たぶん、もう“行く時”だ)

《モチーフ》
キュイーン、キュイーン、キュイイイイーン。
キュイーン、キュイ、キュイ、チュイイイイーン。
コオー、コオオオオー。

(テーブルの下で、れいこは指を組み替える。爪が掌に軽く食い込む。)

「麻酔ってさ、ほんとに効く?」と麻子。

「効くけど、音は来るんだよ」恵が肩をすくめる。「待合のときから手汗すごかったもん。キュイーンが扉の隙間から来て、心臓まで届くの」

「アーンして、って言われたら、どうする?」里奈が笑い半分、真顔半分。

アーンするよ。泣いても、する」恵は言い切る。「終わったらね、ちょっと誇らしいよ。変だけど」

(誇らしい――その言葉が胸に小さく灯る。怖いの向こうに、灯りがあるなら)


二 帰り道とベンチ――“見せっこ”のむこう側(増量版)

午後の講義が終わると、中庭のベンチは新しい葉の影で縞模様になっていた。風が運ぶ土と若草の匂い。学生たちの笑い声が遠くで途切れ、つながり、またほどける。四人はベンチに腰を下ろし、話題は自然と“見せっこ”へ滑っていく。

「じゃ、私も。アーン」里奈は上唇を持ち上げ、犬歯の白い稜線を見せる。健康なエナメルは薄いガラスのように光を返し、歯頸部の薄い乳白が春の光を吸い込んでいる。

麻子は笑って口をすぼめた。「私はシーラント。透明で見えないけど、先生が“うすーくバリア”って言ってた」

「予防、いいなあ」恵が自分の銀色を舌で触れるように口の中で意識する。「私は、星持ち」

れいこは笑う。「私は……見せるほどのもの、ないから」言いながら、舌は右下の奥へ落ちる。ざら。空気が触れるだけで、内部の水が小さく揺れるような感覚。

ベンチの端で小さな子どもが転んで泣き、すぐに立ち上がって走り去る。その姿を目で追いながら、れいこはふと気づく。逃げても、痛みは追ってくる。立ち上がって、どこかへ向かわなきゃいけない。

「ね、もし行くなら付き合うよ」と恵。「待合室で手、握ってあげる」

「ありがと」れいこは笑う。ほんとうは、一人で行くつもりだった。自分の手は、自分で握るために。

《モチーフ》
キュイーン、キュイーン。
コオオオーー、コオーー。ジュツ、ジュ、ジュ。


三 夜の鏡――痛覚が“かたち”になる瞬間(増量版)

シャワーの湯気が鏡から退き、明かりが冷たく戻る。洗面台の陶器は指の腹にざらりと乾いている。れいこはタオルを肩に掛けたまま、鏡の前に立つ。唇を両手の指でそっと引き、「お口は大きく、アーン」。

右下七番。溝の一角が、黒インクを一滴落として薄くにじませたように暗い。舌先が触れる。エナメルのガラスが切れて、象牙質の木目が露出している感触。そこへ常温の水を一口――

「……っ」

電気の針が歯髄の中心からまっすぐ視神経へ奔り、世界が一瞬だけ白で塗りつぶされる。涙腺の弁が勝手にゆるみ、肩の筋肉が反射で跳ねる。次の瞬間、痛みは嘘みたいに引く。(今の“瞬間”を、診療台の上で何度も迎えるのか)

照明の白が、幼い記憶の白に重なる。幼稚園の診療台。白い傘。母の手。耳を塞いでも届くキュイーン。その白は、怯えた自分をまるごと照らして離さなかった。

(行こう。怖いけれど、行く。――今度は、自分の手を、自分で握る)

《モチーフ》
キュイーン、キュイーン、キュイイイイーン。
キュイーン、キュイ、キュイ、チュイイイイーン。
コオー、コオオオオー。
キュイーン、キィーン、キューン。


四 予約の電話――ためらいと決意 予約の電話――ためらいと決意

翌日。講義の合間、検索窓に「奥田歯科」。打っては消し、また打つ。通話アイコンに触れて離し、触れて――押す。

「初診のご予約ですね。明日、三時はいかがでしょう?」

「お願いします」

通話を切ると、掌にうっすら汗。決めたことの軽さと、見えてしまった未来の重さが、両方、胸に乗った。


《インタールード:器具の手入れの朝》

朝のガラスは薄い霜のように曇り、指の跡で丸が描けそうだ。滅菌バッグのインジケータが褐色から黒へ変わった痕を確かめ、金属のトレーに器具が規則正しく並べられる。ミラーの面は一点の曇りもなく、探針の先は光の線を弾く。ハンドピースのオイルが回り、余分はガーゼに吸い取られ、ペダルテストで短いキュが鳴る。吸引のチューブはアルコールで内面まで拭われ、コオと空気を通したときの音がなめらかか確かめられる。紙エプロンは折り目が揃い、紙コップは塔のように積まれている。
ゴム手袋はニトリル。箱から出した瞬間の粉っぽさが指の腹に薄く残り、アルコールで一拭きするときゅっと鳴る。ハンドピースのOリングはシリコンオイルで薄く潤い、チャックは空運転で開閉を確認。バーは番手ごとに立て、#40→#30→#15と細くなる順で手前へ。オートクレーブのインジケータは縞がしっかり黒まで回っているか、二人でダブルチェック。トレーの金属は朝の光でまだ冷たく、置くたびにコトと低い音を返す。

同じ時刻、れいこは駅へ向かう歩道で、足音を一つずつ数えていた。十歩、息を吸う。十歩、吐く。バッグの中で予約カードが擦れ、右下奥がまだ“在る”ことを知らせる。電車の揺れに合わせて、胸の奥の小鳥がばたつき、ホームの冷気を吸うたび、喉の奥が少し乾く。――それでも、行く。

五 入口の前――掲示の文字と漂う匂い

翌日。白いタイルの外壁。ガラスの内側に「予約優先」「フッ素塗布」の掲示。床は磨かれ、外光が細い帯になって伸びる。だが、まず届くのは音――

キュイーン

(もう鳴ってる)

取っ手は汗で少し滑る。自動ドアが開き、消毒薬の匂いが頬を撫でる。受付の女性が微笑む。胸の名札には紗季

「ご予約の山岡れいこさんですね。問診票をお願いします」

〈しみる〉○、〈痛み〉△、〈最後の受診〉高校。書いている指先が湿る。奥の扉の向こうから、音の列が滲む。

キュイーン、キュイーン、キュイイイイーン

コオー、コオオオオー

キュイーン、キュイ、キュイ、チュイイイイーン

小さな泣き声が混じる。母親のささやき。スタッフの「もう少しだよ」。れいこの鼓動は、ベンチの背もたれへ伝わるほど速くなる。

キュイーン、キィーン、キューン

「山岡れいこさん、どうぞ」


《インタールード:通院前の独白》

(目が覚めたら、まず右下奥に意識をあててみる。静か。だけど“在る”。
洗面所の鏡に向かって深呼吸を三回。唇の内側は乾いて、舌はいつもより後ろにいる。肩を一度、上げ下げ。
駅までの道、信号の手前でメッセージを書いては消す。「行ってくる」「大丈夫」――送り先も決めないまま、文字だけが増える。
ホームで風が吹く。首筋の産毛が立つ。電車のドアが閉まる音が、キュイーンの手前に似ていて、胸がきゅっとなる。
到着。歩幅は狭く、踵から着く。十歩、息を吸う。十歩、吐く。予約カードの角が指に当たる。扉の前に立つ。
手汗で取っ手が滑る。――それでも、行く。私は今日、“あの音”の中に入って、出てくる)

六 初診## 六 初診――見られること/説明されること

診療室は白い光に満ち、影は浅い。四台のユニット。手前の台ではさっきの女の子が涙を拭かれている。タービン音は止み、吸引だけが残る。

コオオオーー、コオーー。ジュツ、ジュ、ジュ

紗季が紙エプロンをかけ、声を落とす。「緊張、しますよね。鼻から吸って、口から吐いて……そう、その調子」

白衣の女医が来る。名札は真希。落ち着いたまなざし。

「お待たせしました。はい、それではお口の中見ていきますね、アーンしてください

ミラーが入り、探針が歯列をなぞる。乾いたカツ、カツが骨を伝って返る。

「右下七番、C2。少し大きめ。今日はここを治療しましょう」

「……麻酔は、しますか」

「削ってみて深ければ使います。現状は浅そうなので麻酔なしで入ります。麻酔のぼんやり感や噛みにくさを避けられますし、仕上がりも良いことが多い。痛かったら左手を挙げて伝えてください」

理にかなっている。その理屈が頼もしく、同時に怖い。


七 セットアップ――光の角度、器具の列

ライトが角度を変え、視野が作られる。ミラーが口角をそっと牽き、バキュームが頬の内側に寝床を作る。ハンドピース先端のラウンドバーが固定され、足元でペダルがコツと鳴る。

「肩の力、抜いて。……そう。れいこさん、その調子、その調子。そう、そう」紗季がほめる。胸の真ん中に、柔らかい場所が一枚戻る。


八 始まりの音(第一波)――振動から痛みへ

キュイーン、キュイーン、キュイイイイーン

最初の接触は“音と振動”。歯の表層がわずかに震え、その波が頬骨と下顎枝を通って耳下へ散る。まだ「痛み」には変換されない段階。

キュイーン、キュイ、キュイ、チュイイイイーン

触れては離れ、触れては離れる断続波。唾液の膜が冷え、頬の内側に細い風が走る。自律神経が先に反応して、掌の汗腺が開くのが分かる。

コオー、コオオオオー

吸引が低く呼吸する。胸郭がそれに同調して上下する。

キュイーン、キィーン、キューン

音が細く尖った瞬間、痛覚のドアが開く。エナメルから象牙質へ――神経へ向かう階段の一段目。歯髄の水分が震え、三叉神経の一本の線が光る。

れいこの指先が腹の上で固まる。爪が掌に食い込む。喉が乾き、舌が後退して気道が狭くなる。呼吸が浅い。紗季の声が低く伸びる。

「吸って、吐いて。はい、コオオオーー、コオーー。ジュツ、ジュ、ジュ

キュイーン、キュイーン

(来る。――波が高くなる)

キュウウウーーーン

深部に届く長音。次の瞬間、焼けた針を柔らかな芯に押し込まれたような痛みが歯の底から突き上がり、視界の白を一瞬で塗りつぶす。

「――っ」

右手が反射で挙がる。だが、刃は止まらない。

もう少しですからね〜。いま軟らかい部分を抜いています。動かないでね」真希は淡々と、しかしやわらかく。

はーい、いはくない〜、いたくない〜。上手、上手」紗季が子どもをあやす調子で重ねる。嘘だと分かっていても、その嘘に救われる瞬間がある。

キュイーン、キュイーン、キュイイイイーン

「っ……ぁ、ぁ……」声にならない声が喉でほどける。頬が紅潮し、こめかみが脈打つ。汗が生え際に滲み、耳たぶを伝う。


九 第二波の前――“やめない理由”の説明と小休止

刃が離れ、吸引だけになる。紙コップ。水を含むと薬の匂いがして、吐き出した水に白い泡が散る。

「途中で止められなくてごめんなさい」真希が短く言う。「いまは麻酔を打つより、この層を一気に抜いたほうが短くて安全。痛覚がピークを越えたら必ず引きます。次は細いバーで境を整えて、終わらせます」

説明が筋を通すたび、恐れの輪郭が少しずつ減る。れいこは、腹の上の右手をそっと戻し、頷いた。


十 第二波――鋭痛の刻みと耐え方の獲得

ユニットが倒れ、白い光が戻る。「もう一度、アーン

キュウウウーーーン

角度が変わり、狙いは神経に近い一点。最初の三秒は耐えられる。四秒目、小さな火花。五秒目、骨の芯のぬるい熱。六秒目、キィという細い刃先が眼窩の裏を引っかく。

「っ、ぁ、あああっ……!」

膝が寄り、足指がユニットの縁を押す。かかとが浮く。左手は宙で泳ぎ、空虚を掴む。涙が目尻からこぼれ、紙エプロンに落ちる。

キュイイイイーン――一段、強い。

キュイーン、キィーン、キューン――尾を引く鋭痛。

もう少しですからね〜。ここが最後」

れいこさん、その調子、その調子。そう、そう

音は止まらない。手を挙げても止まらない。けれど、止まらない理由が分かっているぶん、恐れは純粋な痛みに置き換わる。痛みは“耐え方”を学ぶ。肩の力を抜き、舌を後方に逃がし過ぎないよう意識して気道を確保。鼻から吸って、長く吐く。吐くときに腹筋を使い過ぎない。顎は余計に締めない。

コオオオーー、コオーー。ジュツ、ジュ、ジュ

キュイーン、キュイーン

キュイーン、キュイ、キュイ、チュイイイイーン

そして――静かになる。

《モチーフ》
キュウウウーーーン。
コオオオーー、コオーー。ジュツ、ジュ、ジュ。


《インタールード:秒単位・痛覚ログ(第一波/第二波)》

  • T+00s:ペダルのコツ。空気が細く張る。口角がミラーで開かれ、アーンが形になる。

  • T+03sキュイーン(太)。振動のみ。痛みはまだ“予感”。

  • T+06sキュイーン、キュイ、キュイ、チュイイイイーン。触れて離れる。頬の内側に冷たい気流。

  • T+10sコオー、コオオオオー。吸引。呼吸がそれに同調して浅くなる。紗季の「吸って、吐いて」。

  • T+14sキュイーン、キィーン、キューン。音が細る。象牙質へ。痛覚の扉が開く“クリック”。

  • T+18s:焼けた針の一撃。右下奥から視界の白へ短い稲妻。涙腺が熱い。

  • T+22s:右手が宙で泳ぐ。止めてほしい/止めないでほしい、が同時に湧く。

  • T+25sもう少しですからね〜(真希)。声は遠いが芯はある。刃は止まらない。

  • T+28sはーい、いはくない〜、いたくない〜(紗季)。嘘だと分かるが、呼吸が戻る。

  • T+32sキュイーン、キュイーン。鋭痛が尾を引き、頬が紅潮。掌に汗。

  • T+38sコオオオーー、コオーー。ジュツ、ジュ、ジュ。短い休符。唾液が途切れる音が安心になる。

  • T+44sキュウウウーーーン。角度が変わり、神経に近い一点へ。視界の白が濃くなる。

  • T+50s:膝が寄り、足指でユニットの縁を押す。痛みの波の頂点。

  • T+56sれいこさん、その調子、その調子。そう、そう。肩の力が少し抜ける。

  • T+62sキュイイイイーン。最後の軟化層。涙が一粒、紙エプロンに落ちる。

  • T+70s:呼吸が長くなる。吸って4、吐いて6。痛みが“形”から“距離”に変わる。

  • T+78s:音が太くなる。境目の整えに移行。

  • T+85sコオー。長い休符。世界が戻る。

  • T+90s:ユニットがわずかに起きる。「ゆすぎましょう」。水の冷たさは警報ではなく、確認に変わる。

十一 終止符## 十一 終止符――充填材のレイヤー、光の時間

「削るのはおしまいです。よく頑張りました」

れいこは、背もたれに溶ける。吸引のコオーが遠ざかる。ここからは“埋める”作業――素材の時間だ。

「まずうすく薬(裏層材)を置きます。神経を守るためのクッション」

やわらかいペーストが底にそっと乗り、短く光が当たる。

「次にエッチング。青いジェルです。エナメル質を十五秒、象牙質は短め」

冷たいジェルが縁を撫で、タイマーの十五秒が長い。水で洗い、エアで乾かす。エナメルが“フロスティ”に白くなる境目を真希が確認する。

ボンディング入れます。薄く、全体に。軽くエアでなじませて……光重合、十秒」

青白い光が口の中を満たし、まぶたの裏に紫の残像が浮く。

「シェード選び、少しお時間くださいね」

真希はシェードガイドを取り出す。A系、B系、C系。A2A3のチップを右下の歯列に並べ、ライトを一段落として色味を見る。エナメルの**半透明感(トランスルーセント)と、象牙質の温かみ(デンチン)**が場所で違う。

「咬合面だけど、ここはボディ:A2がなじみやすい。縁は少し明るいから、エナメル:A1〜クリアを薄く一層。深いところは**デンチン寄り(A3)**を少し入れて、立体感を出します」

れいこは、並んだ小さな色の板を見て、初めて“歯にも色の名前があるんだ”と思う。試しに小さなレジンを一点置き、軽く光を当てて“仮合わせ”。ミラーで角度を変える。うん、消える。

「では、その組み合わせでいきます」

コンポジットレジンを**インクリメンタル(層状)**に入れていきます。窩壁の適合、マージンの封鎖が大事。光が届く厚みで分けますね」

樹脂が小さなスパチュラで押し込まれ、刃先で形がつくられる。咬頭の骨格が戻っていく。各層ごとにピッと短い音とともに光が当たる。縁の乾いた匂い、わずかな温度。

「隣接面はマトリックスウェッジでコンタクトを作ります」

薄い金属の帯が歯の脇を通り、木の小さな楔が歯間に入り、きゅっとわずかに締まる。次の層が置かれ、再び光。光の時間は十秒、また十秒。

酸素阻害層グリセリンジェルでカバーして最終光。これで表面がしっかり硬化します」

仕上げの光が少し長い。秒針の音が遠くで重なる。


十二 仕上げ――研磨の番手、咬合紙の足跡

「形を整えます」

微粒ダイヤのバーで高いところをなで、スーパーファインで面を揃える。ラバーカップに研磨剤、ポリッシングディスクで縁をならし、ブラシで艶を出す。音はやわらかいキュイ、ときどきキュッ

「カチカチ噛んでください。左右にも」

赤の咬合紙が小さな足跡を残す。高い点を軽く撫でて落とす。次に青の紙でクロスチェック。最後にシムストックがスッと抜ける感触で微調整が済む。

「フロス、通しますね。スナップして引っかからないか確認……はい、良好」

「うがいをどうぞ」

吐き出した水は透明。舌で治療面を探る。つるり。どこが“新しい”のか、もう分からないほど自然。

《モチーフ》
キュイーン、キュイーン。
コオー、コオオオオー。


十三 指導――痛みの後に残るもの

「今日は強い痛みを感じたので、温度差がしみることがあります。今夜だけは熱い・冷たいを避けて。歯ぎしりがあるなら意識して緩めてください」

紗季が鏡を手渡し、磨き方の確認をする。染め出しのローションがピンクの地図を描き、奥の角に小さな島が残る。

「フロスはここで少し止まるはず。抜く時は横へ。そう、そう」

声の調子が、治療中に助けられたあの**「そう、そう」**と同じで、胸の奥が少し温かくなる。


十四 待合へ戻る――音の余韻、他人の気配

椅子に座る。汗が引く。奥の扉の向こうで、また高い音の列が立ち上がる。

キュイーン、キュイーン、キュイイイイーン

小さな笑い声。「上手だね」。あの子も終わったのだと分かる。れいこは小さく頷いた。


十五 帰路――身体に刻まれた譜面

外に出ると、四月の光は夕方の色に傾いていた。商店街の雑音に紛れても、耳の奥にはなお、細い金属音の譜面が残っている。ただそれは、恐怖の音ではなく、やり過ごし方を知っている音に変わっている。

キュイーン、キュイーン、キュイイイイーン

キュイーン、キュイ、キュイ、チュイイイイーン

コオー、コオオオオー

キュイーン、キィーン、キューン

キュイーン、キュイーン

コオオオーー、コオーー。ジュツ、ジュ、ジュ

キュウウウーーーン

れいこは胸の中で小さく笑い、歩き出す。友だちに、どう伝えよう。怖かったこと、痛かったこと、止まらなかったこと――そして、それでも終わったこと。


十六 友人グループ――“痛い話”の再演と変奏

カフェ。恵、里奈、麻子。れいこは氷水を置き、息を整える。

「で、どうだった?」里奈が身を乗り出す。

「正直、途中は泣いた」

「うわぁ」恵が目を丸くする。

手も挙げた。でも、止まらなかった。先生は『もう少しですからね〜』って。紗季さんは『はーい、いはくない〜、いたくない〜』って」

三人は顔を見合わせ、やがて笑いへ変わる。

「でも、終わってみたらね、世界がちょっと違って見えた。冷たい水、もう怖くない」

「音は?」麻子がいたずらっぽく訊く。

れいこは指を一本立て、真顔で息を吸う。「譜面、いきます」

キュイーン、キュイーン、キュイイイイーン。

キュイーン、キュイ、キュイ、チュイイイイーン。

コオー、コオオオオー。

キュイーン、キィーン、キューン。

キュイーン、キュイーン。

コオオオーー、コオーー。ジュツ、ジュ、ジュ。

キュウウウーーーン。

一拍の沈黙のあと、テーブルに笑いが弾けた。れいこ自身の笑いが、一番大きかった。

《インタールード:麻子の回想》

「私のは高校のとき。部室の帰りに寄ったら、即始まり」麻子は笑いながら、氷を転がす。「先生がね、**『はい、それではお口の中見ていきますね、アーンしてください』**って。最初は余裕だったんだよ。で、急に細くなって――キュイーン、キィーン、キューン。あ、これ“やつ”だって分かった。キュイーン、キュイ、キュイ、チュイイイイーンって断続するたび、心臓が勝手に合いの手入れてくるの」

恵がうなずく。「分かる」

「手、挙げた。止まらなかった。『もう少しですからね〜』って。あの言葉、今思えば“続行”のサインなんだけどさ、そのときは“助け舟”にも聞こえるの。不思議。で、衛生士さんの**『はーい、いはくない〜、いたくない〜』**。嘘なんだけど、呼吸が戻るんだよね」

「終わった?」と里奈。

「終わった。吸引のコオオオーー、コオーー。ジュツ、ジュ、ジュが長くなって、音が太くなって、ゆすいだら、もう。私、帰り道の電柱が全部いつもより細く見えたもん。緊張が抜けて」

れいこは水を一口飲み、笑った。「分かる、その視界のピントの変わり方」


十七 翌朝---

十七 翌朝――氷水と静けさの味

コップに氷。蛇口をひねる。透明な水が満ちる。そっと一口。右下の奥は――静かだ。歯髄は騒がず、三叉神経の線は眠っている。

(静けさは、音がゼロになることじゃない。怖さの向こう側で、音を飼いならせること)


十八 再診(仕上げ)――材料の細部と触覚の記憶

数日後の再診。今日は充填の艶とコンタクトの微調整が主役だ。真希は短く段取りを伝える。「表面の微小漏洩を避けるため、縁を再エッチングしてボンドの一層を追い足します。研磨はディスクの番手を二段追加して艶を上げます」

ライト、ミラー、吸引――配置は同じでも、恐怖は薄い。れいこは自分の体が“手順のテンポ”を覚えたのを感じる。音は小さく、痛みはない。ディスクが縁を撫で、ラバーカップがつるりを増幅していく。最後にフロスがスナップして通り、歯間接触が音で確かめられる。


十九 備忘の診療記録(れいこの視点で)

(右下七番 咬合面遠心窩 C2。麻酔なし。切削:ラウンドバー→フィッシャーバー。洗浄乾燥。切削音、段階的。
キュイーン、キュイーン、キュイイイイーン
キュイーン、キュイ、キュイ、チュイイイイーン
キュイーン、キィーン、キューン
患者反応:左手挙上×2、涙、発汗、頬紅潮。術者:「もう少しですからね〜」。衛生士:「はーい、いはくない〜、いたくない〜」「れいこさん、その調子、その調子。そう、そう」。
再開立ち上がり音:キュウウウーーーン。吸引・仕上げ:コオオオーー、コオーー。ジュツ、ジュ、ジュ
充填:裏層材→エッチング(15s/短)→ボンディング→レジン層状充填→グリセリン→最終光→微粒ダイヤ→スーパーファイン→ディスク→ラバーカップ。咬合:赤→青→シムストック。フロス良。終了。)

書くとただの箇条書き。けれど、その一項目ごとに、息の仕方、肩の抜き方、あの二人の声の高さが紐づく。


二十 母への通話――短い言葉と長い安心

「この前、歯医者いったよ」

「えらいじゃない。痛かった?」

「……キュイーン、した」

受話器の向こうで、くすっと笑う気配。「がんばったね」

昔は手を握ってもらった。今日は自分の手を、自分で握った。それだけで少し誇らしい。


二一 季節の端で――平然のかたち

窓の外、緑が濃くなる。れいこは手帳の端に小さく書く。「三ヶ月後、検診」。下にもう一行。「アーンは、怖くない」と。

平然というのは、何も感じない顔ではなく、感じたものを抱えたまま笑える“形”のことだ。今日の譜面は、もう怖さの曲ではない。生活のリズムの中に仕舞われた、短い練習曲だ。

キュイーン、キュイーン、キュイイイイーン。
キュイーン、キュイ、キュイ、チュイイイイーン。
コオー、コオオオオー。
キュイーン、キィーン、キューン。
キュイーン、キュイーン。
コオオオーー、コオーー。ジュツ、ジュ、ジュ。
キュウウウーーーン。


二二 器具交換と音色の章――“同じキュイーン”の中の違い

れいこは、あとになってから、自分の耳が治療中の“音色”を予想以上に覚えていたことに気づいた。たしかに、どれもキュイーンと総称できる。けれど、そのキュイーンは一色ではない。

  • ラウンドバー(うすく削る・深さを取る):最初の接触は丸い輪郭。歯面をなでるような振動が先に来て、音は太めのキュイーン、キュイーン。ときどき空転気味の立ち上がりでキュイイイイーンへ移行する。

  • フィッシャーバー(面を整える・壁を立てる):刃が鋭く、象牙質に入ると音は細くなる。空気の糸を張るようにキュイーン、キィーン、キューン。痛覚の扉が開くのはたいていここ。

  • 細径バー(仕上げ・境目の処理):角度が変わり、狙いは一点。長く伸びるキュウウウーーーンの下に薄い針のような鋭さが潜む。

  • 吸引(口腔内の気流):合間に低くコオー、コオオオオー。仕上げのときは、唾液が切れる音が小さくジュツ、ジュ、ジュと重なる。

足元のペダルの踏み方で音程がわずかに上下し、真希の手のリズムでキュイーン、キュイ、キュイ、チュイイイイーンの断続が生まれる。その“譜面”は、痛みの波と一致していた。


《インタールード:音の地図》

  • ドアの手前(廊下):扉越しの遠音。壁で丸くなったキュイーンが空気にほどけている。吸引のコオーは低周波で、胸に来る。

  • 待合の隅:金属音の輪郭が立つ。キュイーン、キュイ、キュイ、チュイイイイーンの断続が、雑誌の紙の匂いと交ざる。

  • ユニット脇:刃先の方位が分かる。右奥から来るとキィーンが高く、正中に来るとキュウウウーーーンが長い。

  • ライトの下(口の中):骨伝導の主旋律。音は“音”であり、“振動”であり、“痛み”でもある。吸引のコオオオーー、コオーー。ジュツ、ジュ、ジュが、休符と終止形を知らせる。

この地図を覚えることは、恐れに出口を作ることだった。

二三 帰宅後48時間の感覚ログ――しみ、脈、静けさ

T+0h(帰宅直後):頬の内側にわずかな痺れ。右下奥に“空洞の記憶”が残っている感じ。水道水は常温なら問題なし。噛みしめると、遠くでコツと硬さが返る。

T+2h:間食の誘惑をやりすごす。舌で新しい面を触ると、つるりと滑って気持ちいい。冷蔵庫の冷水は避ける判断が自動で働く。

T+6h(夜):歯ブラシ。毛先が治療面を越えるとき、微細なきしみの感覚。痛みではなく、“新しい材質に触れた”という知らせ。フロスはスナップせずに通る。抜くときは横へ。無事。

T+10h(就寝前):ベッドで口を閉じ、上下の歯をそっと触れさせる。咬合は安定。ときどき、鼓動に同調するような弱い拍動感が歯根に宿るが、数分で消える。

T+14h(就寝中の中途覚醒):夢の中で遠いキュイーンを聞いた気がして目が覚める。喉は渇いていない。水を一口。常温なら問題なし。再入眠は早い。

T+24h(翌朝):氷水を前に一呼吸。小さく一口――静か。歯髄は騒がず、三叉神経の線は眠っている。鏡の前で軽くアーンし、色調を確認。境目は分からない。

T+30h:講義中、無意識の噛みしめに気づく。舌を上顎に置く“安静位”に戻すと下顎が緩む。以後、肩のこわばりも軽くなる。

T+36h:友人と昼食。右側で噛む量を少し増やすテスト。固いパンのクラストも問題なし。咬みしめ時、治療部は“輪郭のある無音”としてそこにいるだけ。

T+42h(夜):入浴後の歯みがき。研磨剤の細かい粒感が治療面を通過する感触が心地よい。フロスがスッと入り、スッと抜ける。歯間のコンタクトは音でも教えてくれる。

T+48h:氷水を大きめに。右下は完全に沈黙。口腔内の温度と気流の変化に敏感だった神経は、通常の“街の雑音”レベルに戻った。メモに「OK」と書く。


T+60h:軽いジョグ。体温と脈が上がると、右下奥に拍動に同調する鼓動感がわずかに現れる。痛みではない。靴音と同じテンポで二、三分続き、クールダウンとともに消失。

T+68h(起床時):目が覚めると、上下の歯が薄く触れているのに気づく。夜の噛みしめの名残。舌を上顎に置き、下顎を重力に任せると、筋の緊張がすっとほどける。朝の水は問題なし。

T+72h:昼食にりんご。右側で意識して噛む。クラッシュの瞬間、治療面は“滑らかな台”として機能し、音だけが明るく立つ。違和感なし。メモに二重丸。

二四 友人の挿話――恵の“銀の星”と、あの日のキュイーン## 二四 友人の挿話――恵の“銀の星”と、あの日のキュイーン

「私のはね、中学のとき」恵はコップの水面を見つめながら話しはじめた。「部活のあと、急にしみてさ。椅子に座ったら、先生が開口一番、**『はい、それではお口の中見ていきますね、アーンしてください』**って。そこからはもう、流れ作業みたいに始まって……」

恵の指が無意識にテーブルをとん、とん、と叩く。「最初は平気だった。で、急に細くなって――キュイーン、キィーン、キューンって。手、挙げたよ。止まらなかった。『もう少しですからね〜』って」

「わかる」れいこはうなずく。「止まらない理由、あとで聞くと納得するんだけど、その最中はね」

「うん。衛生士さんがさ、**『はーい、いはくない〜、いたくない〜』**って。嘘だよ、って思いながら、でもその声で呼吸のしかたを思い出すの」

里奈が横から口を挟む。「それで銀?」

「そう。右上の六番。いま思えば、仕上げの吸引のコオオオーー、コオーー。ジュツ、ジュ、ジュが終わりの合図だったんだよね。鏡で見たとき、星みたいで……嫌だったけど、ちょっと誇らしくもあった」

「誇らしい?」

「うん。逃げなかった“証拠”みたいで」

れいこは、その言葉が胸の奥にやさしく落ちるのを感じた。自分の右下の滑らかなレジンは見えないけれど、やっぱり証拠だ。キュイーン、キュイーン、キュイイイイーンの列を、ちゃんと最後まで聴いた証拠。


《インタールード:里奈、初めての治療》

「とうとう私も予約入れたわ」里奈はメッセージを送ってから、すぐに後悔して、それでも送信取り消しはしなかった。待合で名前を呼ばれて、心臓がちょっと跳ねる。

はい、それではお口の中見ていきますね、アーンしてください

最初はつい笑ってしまう。口の端にミラーが当たって、頬が押される。キュイーン。思ってたより、音は小さい。次の瞬間、キュイーン、キュイ、キュイ、チュイイイイーン。断続。あ、来るやつだ、と里奈は思う。

キュイーン、キィーン、キューン。細い音に変わって、痛みが下から持ち上がる。手、挙げる。止まらない。「もう少しですからね〜

はーい、いはくない〜、いたくない〜

涙が出るほどではない。でも、目の奥が熱い。呼吸をゆっくり。吸って4、吐いて6。コオオオーー、コオーー。ジュツ、ジュ、ジュ。休符。里奈は、れいこが言っていた“やり過ごし方”を思い出す。

終わって鏡を見ると、どこを治したのか分からない。舌で触ると、つるり。帰り道、アイスティーの氷を一粒口に含む。――静か。メッセージアプリを開く。

〈終わった。大丈夫だった。ねえ、あのキュイーン、思ってたより、怖くないかも〉

《モチーフ(短)》
キュイーン、キュイーン。
コオー。

二五 もう一つの“譜面”――音が怖くなくなる手順

れいこは、自分なりの“段取りメモ”を作った。次に誰かが怖がったとき、手渡せるように。

  1. 席に座る前に:肩を一度上げ下げ。鼻から吸って、口から吐く。三回。

  2. ライトが落ちたら:舌を後方に引きすぎない。気道を確保。顎は“重力に任せる”。

  3. 最初の振動で:痛くないうちに呼吸のテンポを捕まえる。吸って4、吐いて6。

  4. 細い音に変わったら:指先と足指に“逃がす”イメージ。肩に力を入れない。

  5. 止まらなかったとき:理由を思い出す。「軟らかい層を今は一気に」。合図のコオーが来るまでは身を委ねる。

  6. 仕上げの吸引コオオオーー、コオーー。ジュツ、ジュ、ジュは終章の前奏。ここで力が抜ける。

  7. 充填の光:まぶしさに目を細め、数える。10、10、最終20。光が終われば、曲も終わる。

メモの最後に小さく書き足す。「アーンは、怖くない」。


二六 季節の端で(再)――静けさの輪郭

窓の外では、葉桜が濃い緑になりつつあった。れいこは氷水を一口。右下の奥は、今日も静かだ。耳の奥のどこかで、まだかすかにキュイーンの残響が聴こえる気がする。だがそれはもう、恐怖の音ではなく、生き延び方を教えてくれた先生の声のキーとして記憶されている。

キュイーン、キュイーン、キュイイイイーン。
キュイーン、キュイ、キュイ、チュイイイイーン。
コオー、コオオオオー。
キュイーン、キィーン、キューン。
キュイーン、キュイーン。
コオオオーー、コオーー。ジュツ、ジュ、ジュ。
キュウウウーーーン。


二七 時間の章――待合室の掲示と匂いと時計の音

扉を閉めた内側には、別の時間が流れている。壁の掲示は淡い色の紙で、「定期検診で虫歯ゼロへ」「フッ素塗布でエナメル強化」「歯周病は静かに進行します」といった言葉が、やさしい丸ゴシックで貼られている。角はきれいに丸められ、テープの端まで清潔で、誰かが毎朝、指先で撫でて整えている気配がした。

消毒液の匂いは、空気の温度で変わる。冷房のときは鋭く、暖房のときは丸い。今は春の半端な温度で、薄い膜のように鼻の奥に残る。

時計は一秒ごとにコッ、コッと音を刻む。待つ人の呼吸は、その音に合わせて浅くなりがちだ。ときおり扉の向こうから、音の列が滲みだす。

キュイーン、キュイーン、キュイイイイーン――刃が立つ合図。

コオー、コオオオオー――風が巡り、唾液が吸われる音。

キュイーン、キュイ、キュイ、チュイイイイーン――触れては離れ、また触れる断続。

キュイーン、キィーン、キューン――細くなった刃先が象牙質の声を引き出す。

ソファの布は、座る人の重みでゆっくり形を変え、戻る。雑誌の表紙は角がわずかに毛羽立っている。女の子の泣き声が細く混じり、すぐそばで母親の囁きがそれを包む。時間は伸びたり縮んだりしながら、確かに前へ進む。番号が呼ばれ、誰かが立ち、別の時間帯へ移る。れいこもまた、その境目に立っていた。


朝の待合は音が軽い。ガラス越しの光がまっすぐで、紙の掲示が少し反射する。開院直後は空気も新品で、消毒の匂いがシャキッと立っている。夕方は音が柔らかい。外の暗さが室内の光を温かくして、吸引のコオーも丸くなる。帰り支度の人の気配、制服の袖口の柔軟剤の匂い。時計はどちらでもコッ、コッだけど、朝は先へ先へ進もうとし、夕方は“今日を仕舞うリズム”に近い。

《インタールード:待合室の少女》

私は、椅子の布の手触りを指でなぞっている。お母さんの手はあたたかいけど、汗ばんでいて、私の手も汗ばんでくる。扉の向こうから、小さくて長い音がくる。

キュイーン、キュイーン、キュイイイイーン

お腹の中で小さな魚が跳ねたみたいに、ひゅっとなる。吸う音もくる。

コオー、コオオオオー

お姉さんが来て、しゃがんで目の高さになる。「もう少しだよ。お口は大きく、アーンできる?」私は、顎がひとりでに下がっていくのを感じる。泣かないって決めたのに、目が勝手に熱くなる。お姉さんが笑って、「はーい、いはくない〜、いたくない〜」って言う。ほんとは少しこわい。でも、その声は良い。少しだけ、こわくないみたいに思える。

キュイーン、キィーン、キューン

番号が呼ばれる。私は立つ。足は小さいけれど、前へ行く。

――掲示は近づいて読むと、もっと細かい声を持っている。

〈三ヶ月ごとの定期検診で“ゼロ”を続けよう〉
〈フッ素塗布はミント味/バナナ味が選べます〉
〈麻酔後は熱い飲食にご注意ください〉
〈舌で新しい詰め物を強く触れないように〉
〈唾液はあなたの最強の自浄剤です〉

紙の端は丁寧にラウンドしてあって、テープは空気を噛まない。朝、貼り替えるときに鳴っただろうぺり、ぺたという小さな音を、掲示そのものが覚えているように見える。視線を動かすと蛍光灯の白が紙の表面で細い帯になって滑り、角の影が座る人ごとに形を変える。

時計のコッ、コッは、心の速さを映す鏡だ。怖いときは秒針が遅く見える。間が伸び、音が隔たる。息が待てずに前へ出て、胸がきしむ。落ち着いてくると逆に、コッ、コッが追い越していく。さっきより早く感じるのに、針は正確な弧を描くだけ。女の子のすすり泣きがコッ、コッの合間に溶け、やがて静かになる。時間は伸びたり縮んだりしながら、それでも前に進む。

それに、季節で“待つ匂い”はぜんぜん違う。は消毒の匂いが一番シャープで、花粉の気配と混ざる。は甘い湿気が混ざって、冷房の風で角が丸くなる。は紙の乾いた匂いが勝って、雑誌のページがめくるたびぱりと鳴る。はコートの毛の匂い、マフラーの温度、そして加湿器のしゅうという細い呼吸。時計のコッ、コッは、どの季節でもやっぱり正確で、こっちの気持ちだけが早まったり遅れたりする。

《インタールード:待合室の少女》

私は、椅子の布の手触りを指でなぞっている。お母さんの手はあたたかいけど、汗ばんでいて、私の手も汗ばんでくる。扉の向こうから、小さくて長い音がくる。

キュイーン、キュイーン、キュイイイイーン

お腹の中で小さな魚が跳ねたみたいに、ひゅっとなる。吸う音もくる。

コオー、コオオオオー

お姉さんが来て、しゃがんで目の高さになる。「もう少しだよ。お口は大きく、アーンできる?」私は、顎がひとりでに下がっていくのを感じる。泣かないって決めたのに、目が勝手に熱くなる。お姉さんが笑って、「はーい、いはくない〜、いたくない〜」って言う。ほんとは少しこわい。でも、その声は良い。少しだけ、こわくないみたいに思える。

キュイーン、キィーン、キューン

番号が呼ばれる。私は立つ。足は小さいけれど、前へ行く。

二八 研磨の光の章――番手ごとの艶をめぐって## 二八 研磨の光の章――番手ごとの艶をめぐって

刃の音が止み、充填が終わったあとに訪れる“静かな職人の時間”。研磨は、番手の違いで光の種類が変わる。

最初の微粒ダイヤは、曇ったガラスを柔らかい布で円を描いて拭くような艶。表面の微細な段差を均し、粗い光を揃える。音は短いキュイ、触れる時間は短く、熱は生まれない。

次のスーパーファインは、絹を撫でる指の腹の感触に近い。光は“面”を持ちはじめ、エッジの線が細く立つ。照明の白が歯面で細長いハイライトになって、呼吸に合わせてかすかに揺れる。

ポリッシングディスクは、紙やすりの概念を裏切るほど繊細だ。乾いた花弁で水滴の縁をそっと吸い取るみたいに、マージンが柔らかく融け合う。音はさらに軽くキュッ

仕上げのラバーカップは、朝の湖面に薄日が差すときの広がり方。艶は点から面へ、面から空気へ。照明の円が歯面に丸く移り、視線を動かすとスムーズに滑っていく。れいこは、口の中の小さな職人仕事に、少しの誇らしさを覚えた。


二九 三ヶ月後――定期検診と冷水テストの再挑戦

夏の入口。再診のカードに丸をつけた日、れいこはまた同じドアをくぐった。受付の掲示は季節のポスターに替わり、匂いは少しだけ甘さを帯びている。ユニットに座ると、紗季が笑って言う。「お久しぶり。今日もアーン、お願いします」

はい、それではお口の中見ていきますね、アーンしてください」真希の声は変わらない。プローブが歯面をなぞり、数字が静かに読み上げられていく。右下七番のレジンは、境目もわからないほど歯面に馴染んでいる。

「では、冷水テストいきますね。しみたら合図を」

紙コップの水が冷たく、頬の内側に当たる。れいこは目を閉じ、右下の奥に意識を置く。ひと口。……静か。歯髄の水は揺れず、三叉神経の線は目覚めない。

紗季が小さくガッツポーズ。「よし」

咬合紙の時間。で全体を、で要所を。カチカチ噛んで、左右へ誘導。紙の足跡は均一で、高い点はない。最後にシムストックがスッと抜け、フロスがスナップせずに通る。

「問題なし。とてもきれいです」

帰り道の氷水は、あの日と違って最初から静けさの味がした。待合室の時計の音も、今日はただの時報だ。れいこは内ポケットのカードに次の丸をつけ、歩幅を少しだけ広げた。

商店街のアーケードを抜けると、夏の入口の光が斜めに降りてくる。風鈴がちりんと鳴り、八百屋の氷箱から白い息が流れる。汗ばんだ頬に風が触れると、診療台のライトとは別の種類の白さを思い出す。

角の喫茶でアイスコーヒーを頼む。厚手のグラスが湿って、雫がつーっと落ちる。氷がからんと鳴るたび、待合室の氷水とは違う“自由な冷たさ”を感じる。ストローを口に含み、一口だけ右下へ流す。ゆっくり、そっと。

――静かだ。

歯髄は起きない。三叉神経の線は眠ったまま。グラスの内側で氷がゆっくり回り、表面に小さな渦ができる。外の風鈴がもう一度ちりんと鳴る。私は、カウンター越しの時計のコッ、コッを聞きながら、冷たさを二口、三口と増やす。右下はずっと静かで、ただ“在る”。

店を出る。日向と日陰の境目を踏むたび、足音が少しだけ変わる。ポケットの再診カードに次の丸をつけ、私は、いつもより一歩ぶんだけ大股で歩く。

《インタールード:母との追章》

夕方、台所で鍋の湯気が上がっている時間。私は椅子に腰をかけて、母の背中に声をかけた。

「この前の定期検診、行ってきたよ」

「どうだった?」

「冷たいの、いけた。アイスコーヒーも」

母は振り向いて、眉を少しだけ上げた。「あら、強くなったね」

「強くなったっていうか、慣れたのかも。キュイーンは相変わらず嫌いだけど」

「そりゃあね」母は笑って、菜箸で鍋を軽く叩く。「でも、小さいときのあなたより、今のあなたのほうが、ちゃんと『アーン』ってできる顔してる」

私は少し照れて笑った。「手、握ってもらわなくても、いけたし」

「でも、もしまた怖かったら、握ってあげるよ」

「うん」

台所の時計がコッ、コッと進む。鍋の湯がことこと鳴る。窓の外で風鈴がちりん。私は、あの日の白い光を思い出して、でも心は静かだった。

《モチーフ》
キュイーン、キュイーン、キュイイイイーン。
キュイーン、キュイ、キュイ、チュイイイイーン。
コオー、コオオオオー。
キュイーン、キィーン、キューン。
キュイーン、キュイーン。
コオオオーー、コオーー。ジュツ、ジュ、ジュ。
キュウウウーーーン。

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cuwaaauuso
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昭和生まれ

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